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夜泣き地蔵
三ツ橋伝説
赤城小沼と赤堀の竜女伝説
義経伝説
国定忠治のミニ意識

戸谷塚町にある観音寺境内には「夜泣き地蔵」といわれる天明三年(1783)の浅間大噴火の供養塔が建っている。天明の浅間山大噴火で被害を被った人々の遺体が、利根川の川岸に打ち上げられた。気の毒に思った戸谷塚の村人が埋葬したが、夜な夜な墓から泣き声が聞こえてくるので、成仏してもらおうと翌年に地蔵様を建立したところ、泣き声はしなくなったという。それからというもの、地蔵の赤いおかけを借りて、なき癖のある赤ん坊につけると泣き癖が直るという。

 

昔、馬見塚町には小川が三本流れていて石橋が三つ架かっている場所があった。今から八百年前の春、世良田長楽寺を開山した禅師が、牛にのって通りかかった時、橋の下でハシカで苦しむ子供を抱いた夫婦に会った。禅師が牛の背を打つために、持っていた小枝を子供の顔にかざしたところ、ハシカが直ったという。それから、子供がハシカにかかったら三つの石橋の下をくぐらせると早く直る、また軽くすむといわれるようになった。

 

赤堀地区には赤城山の小沼に結びつく竜女伝説がいくつもある。
その一つは昔、赤堀郷の長者道玄の16歳になる一人娘が、赤城山に参拝に行き、小沼のほとりで水中にひきこまれ、沼の主の龍神になってしまったという。悲嘆に暮れた父は小沼に赤飯を供養として流すと、翌日には空になった重箱だけが水面にもどるという。それから16娘が小沼を通るときには、引き込まれないように身代わりとして鏡を投げ入れたという。
 他には、徳川家康の旗本、小菅又三郎の妻で赤堀道完(=道元、道玄)の娘が赤城明神に参拝に行くと小沼の辺ですざましい数のむかでが現れ、内室を沼の中に引き入れてしまった。その後、沼の主、竜蛇の姿になって現れたといわれている。
 赤堀氏の祖先はムカデ退治をした藤原秀郷と伝えられ、今井町の宝珠寺墓地には藤原秀郷、赤堀道玄、小菅又八郎の墓がある。

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市内北部の殖蓮、赤堀地区には悲劇の武将「源義経」にまつわる伝説が残されている。義経が兄、頼朝の勘気にふれ、京を追われて奥州平泉の藤原氏を頼って逃れるとき、この地域を通る当時の主要道であった旧東山道(あずま道)を利用したと云われている。

●義経馬殿塔
義経の身代わりとなって、満水した粕川で溺れ死んだ愛馬を厚く葬って供養塔を建てた。正観寺(上植木本町)の門前にある石塔。

●掛矢清水 
義経のお供をしていた弁慶が、のどの渇きを癒すために水場を探すように命じられたが見つからず、天に念ずると「立っている下を叩いて見よ」とお告げがあった。背にした七つ道具の一つ掛矢を振りかざし、地面を叩くと清水が湧き出したという。実際にこの地域は、伝説通り利根川の湧水地が多くあったところだ。地元の歴史研究会によって案内板が建てられている。

●酒盛地蔵
書上浄水場の西、畑の中にひっそりと小さなお堂に収まっている酒盛地蔵の由来は、義経の一行が奥州に下るとき、地元の人が歓待するための宴を催すと、そこに僧に化身した勝軍地蔵菩薩が現れ、一緒に義経の前途を祝したといわれている。

●牛石
五目牛町には、牛が背を丸めうつぶせているような姿の巨石がある。少数の家来と大きな黒牛を連れた義経が、粕川にさしかかったが、大洪水で渡れない。思案の末、まず牛を川に入れ、渡れるかどうか試したところ、牛は激流に飲まれてしまった。翌日、水が引いた川辺には、石と化した牛があった。義経は「牛石と呼び、長く弔い候う」といい、渡り去った。

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宮子の農家の隠居で阿感坊という者が薪を伐りに来てナタを淵に落とし、それを取りに入って遂に龍宮浄土へたどりついた。ここに三日間いて、土産に竜馬石・ものう玉・正観音の金仏をもらい帰ってみると、三日と思ったのに、三年の月日が経っていたという。




人形の寸法は高さ約30cm
種類は3種類あり写真左からハイカラ、マルマゲ、シマダと呼ばれる。
島村にオキヌサン人形が伝わる。これはカイコビョウ(蚕日雇)に来ていた、お絹さんという女性がモデルである。お絹さんは器量よしで、年は二十歳くらい。いつも赤いたすきに赤い前掛けをかけていた。蚕手伝いに行く先々で不思議と蚕が当たる。
ある年、養蚕シーズンになってもお絹さんの姿が見えない。おそらく結婚でもしたのだろうと村人は噂をし合った。ちょうどそのころ、お絹さんを毎年雇っていた家で仏様に供え物をしたところ、すうっと白蛇が出てきた。お絹さんは白蛇になったのだ、と話し合ったという。以来、お絹さんの代わりに人形を作って豊蚕を祈るようになったのである。
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「赤城の山も今宵限り」でおなじみの国定忠治。上州名物の「空っ風」が吹き荒れる中を股旅者が今日も行く・・・。17歳で殺傷事件を起こし渡世の道を歩んだ忠治だが、博打で儲けた私財で庶民救済も行った。墓石は、削り取られて賭け事のお守りにされ、現在の墓石は2代目で柵に囲まれるが、角は欠け丸みを帯びる。

◆◆◆ 忠治略年譜 ◆◆◆

文化7年(1810) 佐位郡国定村の名主長岡家に生まれる。
天保3年(1832) 22歳 旧境町の紋次という親分から盃をもらい、任侠の世界に入る。
天保5年(1834) 24歳 島村伊三郎を殺害し八州手配を受け信州に逃れる。
天保7年(1836) 27歳 天保飢饉に際し、磯沼を掘り農民を救う。大博徒の大前田英五郎から兄弟分のの盃を受ける。
天保13年(1842) 玉村の博徒主馬と三室勘助を殺害し、佐波新田地方を縄張りにする。
嘉永3年(1850) 大戸の関所で磔刑となる。41歳没

※男伊達忠治は、無宿の大親分で役人から重点指名手配される身であった。しかし、天保の飢饉で貧民救済に乗り出すなど、面倒見のよさもあった。大戸の磔刑の死に様は、歌舞伎や演劇に取り上げられている。

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